2004年12月22日

記号としての私。情報としての私。

柴犬さんのひとつ前の記事を受けて。

今、私がやっている仕事のひとつに占いの内容文をリライトしたり書き込んだりという案件があるんですけど、ほんとにこの業界、占いとアダルトの仕事だけは途絶えませんねー。

占いのサイトやコンテンツってアホみたいに多いじゃないですか。携帯のサイトを見たってすごい数が乱立しているし、雑誌の後ろには必ず占いのページがある。そればかりか雑誌自体のメイン特集になったり、占い雑誌として成り立っていたり。

それくらい、占いや診断系、恋愛心理学などの人気は明白で、それゆえ衰えることもないカテゴリー。
確かに自分も、占いを心底信じるわけでもないのに何か機会があればチラッと見てたり、雑誌読むついでになんとなく読んでたり、ニュース番組のなかにはめ込まれたコーナーをチェックしてたりするんですよね。
見たからって自分のその後の行動になんら変化があるわけでもなし、つけようともしていないんですけど。

なんかこれは、買う気もないのにのぞいちゃって、いろいろ購入してしまう、100円ショップとかコンビニの心理に似ているような気がするわ・・・。

まあ、それはいいんだけど。





占いは占いでも、診断系ってあるじゃないですか。
純情度●%とかさ、変態度●%とか、あるいはキャラミルみたいにあなたは○○タイプ、みたいなノリで、「自分の中の本当の自分」を指摘してくれる、ってヤツ。

あるいは夢分析とかで、この夢にはどんな意味があったのか?とか、心理分析で、この行動をしているときの自分の気持ちは?相手の気持ちは?みたいなヤツ。

ああいうのを見ていると、どんだけの人間が「本当の自分」てのを知りたいんだよ、と遥かな気持ちになっちゃったりするわけで。だって自分を把握したくてたまらない人がたくさんいるってことは、自分が何なのかわかってない人が同数いるってことじゃないですか。

まあまあ。
自分で自分のことがわからないのか?なんてセリフをみかけたりしますけど、自分なんてそんなにわかるもんじゃないですよね。で、よくわからないけど、こういうトコもこういうトコもこういうトコもあるのが自分、と。一番目立つ部分、わかりやすい部分で集約して「自分」であると言っているわけです。

タイトルの「記号の私。情報の私」ってのは、それです。
たとえば、「怒りっぽくて感情的で、ひとりよがり」っていうのは、自他共に認める記号としての自分です。キャラクター的な自分。
しかし、「怒りっぽいのはこういう理由があって不安だったから怒ったのであって、実は怒りっぽいのではなく心配性で小心者でまわりがみえなくなっちゃうだけ」という、自分にしかわからない、いや、自分でもわからない自分というものがある。この理由の部分って毎日置き換えられていくし、その考え方は現時点でのもので、明日もそうであるかどうかはわからない。
つまり書き換え可能な部分です。
これが、情報としての自分。

本人が葛藤するのは、多分情報の自分を受け取り続けることが生きるということだから。と思うんですよ。つまり変化していく自分を、どこかでわかっているし、実感してる。だけど、それだと「昨日はこう感じたけど、今日はまるっきり違う感じ。でも、あたしはあたし。一人の人間。これってどうして?どういうこと?」という疑問が生じてしまう。

記号としての自分はあまり変化しない。
他人からこういうキャラ、として見つめられている部分だから、つかみやすいし、わかりやすい。把握しやすいんですよね。

ちょっと簡単に説明すると、アニメか実写か、ってことですよ。

子供って、絵本やアニメ、漫画に出てくる「犬」ならすぐ描けるようになる。
だけど、本物の、すぐ目の前にいる「犬」は描きにくい。

なぜなら前者はもう作者の手によって簡略化されているからです。だけど、後者は自分の目で、自分の手で簡略化していく作業をしないと、描くことができない。
本物の犬はじっとしてはくれないし、光を受けて立っているから凹凸の部分に影ができるし、影は複雑な形だし、微妙な色だし、絵と違って毛はふさふさしているし、やわらかさを描くには技術が必要だし、一つ一つのパーツもものすごく複雑な形をしている。

絵本やアニメのなかの「犬」は記号としての自分で
本物の「犬」は情報としての自分。

だから、絵本やアニメの「犬」を見ている人たちって言うのは、「犬って簡単に言うとこういう特徴があるんだ。ワン!って鳴くんだ」と理解しやすくなるけど、本物を前にしたらこうはいかないわけです。「確かにこういう特徴はあるけど、でも全部が全部そうとはいえないし、歳を取れば毛づやは悪くなるし、食べれば太るし、ワンってないてんのかオンってないてんのか、ウーってないてんのかわかんねーよ!」となる。

わからないということは私たちに不安をなげかけ、イライラさせる。だから本物が目の前にいるのに百科事典や本を持ってきて、「ああ、こういうことだったのか。そうか、そうなんだ」と納得させるわけです。

つまり、自分の情報の部分をどうにか記号にしたい。記号にしないと不安でしょうがないわけです。

だから私たちは占いをして、自分という情報を記号化させて、自分というものに納得したいし、自分をもっとわかりやすく把握したい。
占いによって、なんとなくそんな気持ちになってる。記号になった気分になってる。記号になることは安心だ。だから占いは人気が暴落することはないんですよね。

で、柴犬さんのその、「こっちから見てると彼女の間違いもわかるんだけど云々」、という部分。
結局私たちは第三者になればなるほどその人物を把握しやすくなるんですよね。その人の情報を持っていないから。情報は持っていればいるほどわかるんじゃなく、もっていればいるほど本質をわかり難くしてしまうものだから。
いろんな情報に惑わされて、大切な核の部分を見落としてしまいがちだから。

記号として大雑把に把握していると、無駄な情報がないから問題点もすごく理解しやすいし、すぐに指摘できる。こうすればもっとよくなるのに、って。

本人は毎日毎日あふれかえってくる情報の下敷きになっているから、「これはこういう理由があるからで、これはこうで」って整理しているうちに、整理の仕方を間違えて自分の問題点をどこにしまっちゃったかわからなくなるんですよね。
自分の情報だけじゃなくて、毎日のように、たとえば恋人や家族などの、問題に関わる人たちの情報までどんどん入ってくるわけで。

たとえばその彼女が男にだまされてると仮定して、私たちはその男を、限られた情報の中で記号化するから「オンナを食い物にする二枚舌のいやなやつ」とキャラクター化できるけど、関わってる女にとってはその情報以外の細かな情報がたくさんあるわけです。人間的な情報だとか、ちょっとそこらに寝転がってるときの無防備な顔の情報だとか、つまづいたときに本気で「大丈夫!?」と声をかけてくれた情報だとか、そういう細かくてどうでもいい情報。

第三者には流れ出さない自分だけの情報って言うのが一番厄介で、それがあるからこそどんどんキャラクター化が困難になってくる。だから「ダメなやつだけどいいところもある」といったどうにでも変化することの可能な解釈になってしまって、そこから全ての判断が狂っちゃうんですよね。

というわけで、なんか、自分のことがわからなくなったら周りの人たちに聞いてみるってのもいいのかもしれない。自分以上に自分というものを把握してくれているだろうから。そういう単純でわかりやすい自分象、っていうのが、やっぱり一番核心に迫った自分なのかなと、なんか最近そう思うんですよね。(もちろん、全てをキャラクター化することがいいことかといわれれば答えはNOですよ。それは0か1かを選べってのと同じですからね。極端な世界になってしまう。その間の数字をあいまいにさせておくことで、人間関係が円滑にいくということもある。こうだと思ってたら、こんなとこもあったのか。思ってたよりいいヤツじゃん。とかね)


他人から自分の評価を耳にして
「勘違いしてる、そんなのはほんとのあたしじゃない」
なんつーセリフを口にする人もいますけど、でもやっぱり、そういうふうに受け止められてるってことはそういう部分が必ずどこかにあるんだと思います。少なくとも、そういう風に誤解されるだけのふるまいをした自分はそこに存在する。

だって、絵本やアニメの中の犬は実際の犬とはまったく違うけれど、それでも犬って認識できるじゃないですか。本物と違うからって、犬であると認識できる絵を前に、これは絶対的に犬じゃない、といえますか?

posted by ヤミナベ at 08:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 猫屋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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